青年クラブとは
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活動内容

3本の柱のもとに活動を実施!


活動状況

 各年度(9月〜8月)ごとに、その期の目標(スローガン)を掲げて、【(1)地域開発のための政治・経済や、学術、文化及び教育に関する調査や意見発表(分科会)を行ない、その計画・立案と実現への積極的な事業です。(2)公害環境開発としての都市美化・河川美化及び薩摩義士顕彰の積極的な活動を通じ奉仕と報恩の精神を生みだす事業。(3)自分たちが力を合わせて青年クラブ目的達成のために励めるものも、やはり会員相互の協力、家族相互の協力事業】を企画し目標達成をめざし、青年クラブの「3本の柱」をもとに実践活動をしております。

自己研修

研修例会
研修 研修

 毎月第3土曜日の夜、公共施設等で研修例会を開催しています。講師には、政治・経済、教育・文化、スポーツ等各分野から優れた人物、優れた功績を残しつつある方を招き、話しを聞くなど、人格を学んでいます。特に幅広い考え方と物事にとらわれず、かたよらず、こだわらず、広く大きな心で豊かな心にて自己確立をめざしています。また、毎年桜が咲く時期には「舟下り芭蕉祭」を、水門川一帯で開催しております。これも、奥の細道むすびの地である郷土大垣を再発見し、文化の街大垣を広くPRしたいからです。

社会奉仕

都市美化 都市美化

 奉仕活動の一端は昭和37年「郷土美化運動」をはじめ、当時は大垣公園にクズかごを置き、午前5時50分から公園の清掃に努めました。現在の都市美化は、昭和42年「水の都」といわれてきた大垣も徐々に変貌をはじめ、水不足と川の汚染が街の大きを問題になり、各種団体が話し合いの場を設け、クラブの代表者、宮内和男先輩が、「私達は行動でもって水門川の美化に、まず取り組み、具体的には河川の状況を知る為パトロールを行ないます。」これがきっかけで実践活動として、昭和43年から毎月1回第3日曜日早朝より水門川を中心とした河川美化を行なっています。また、昭和47年から、工業の著しい発展により環境破壊から緑を増やす等で、緑化推進運動にも取り組み、公園・緑地帯への植樹・除草清掃作業を行ない、その他、大垣公園、海津油島の治水神社等の除草清掃作業も行なっています。

薩摩義士顕彰事業

治水神社 治水神社

 昭和34年東海地方を襲った伊勢湾台風で岐阜・愛知県下は甚大な被害を受けました。各所では激流・濁流により堤防が決壊した中、宝暦年間(1754年)薩摩の人々によって造られた、治水堤防(千本松原の堤防)は無傷でした。これに感動した我々大垣青年クラブは、昭和37年から薩摩義士顕彰事業を取り上げ、毎年5月の鹿児島市頚徳慰霊祭に参列、治水神社の春秋大祭への参拝、また昭和44年から毎年8月に鹿児島市から中学生30数名招待し、宝暦治水の当時の現場への案内説明、宝暦治水の史跡・遺跡の見学、また大垣市中学生との交換会を行なう等、大垣・鹿児島両市の都市親善に貢献しています。
 この前代未聞の宝暦治水工事も、時代とともに忘れ風化しつつありましたが、大垣市の先人、大垣治水の恩人、金森吉次郎翁がこの恩恵を忘れず、この功績を伝え、つきぬ感謝を捧げなければと、あの千本桧原に「宝暦治水の碑」を建立いたし、数々の薩摩義士顕彰に力も注ぎました。

金森吉次郎翁顕彰事業

 金森吉次郎は、元和元年(1864)現在の大垣市魚屋町で生まれました。吉次郎が15才の時、新聞で私財を投げうって独力で、天龍川の堤防を築き人々を敵うという金原明善氏に感銘を受けました。この背景には、西濃地方は(明治前半)毎年のように水害に見舞われ、その惨状を目のあたりにした事、父(金四郎)も、水害の救済や治水に取り組んだ影響を受けたからだと思います。吉次郎は明治21年大洪水の折、25才で大垣論中委員に救済委員として、大垣の人々の救済に尽くし、明治24年10月の濃尾大震災で被害の惨状を皇室、政府、県へ訴え救済に努力もしました。そして、あの明治29年9月、大垣城天守閣下まで浸水した大洪水の時には、激しい風雨の中一命を捨てる覚悟で、横曽根堤権現下を切り割り大垣輪中内に溜った濁水を揖斐川へ排出し、約8,000軒、約40,000人の人命を救った。また、治水の先人、薩摩、宝暦治水を顕彰する為、千本桧原に宝暦治水之碑を建立。また大正8年には、京都伏見大黒寺に薩摩義士碑を建立するなど我々青年クラブは、吉次郎の、父から譲り受けた全財産と、自らの一生を治水の為に使い尽くし、歴史に残る薩摩義士の顕彰などに、感動を覚え、昭和43年8月金森吉次郎翁追悼式を挙行、以後毎年金森吉次郎翁顕彰事業を開催しています。

相互親睦

新年互礼会 新年互礼会

 会員家族が一番楽しみにしているクリスマスチャリティーも昭和37年12月、クラブ員がクラブの為に精力を出して打ち込めるのも家族の暖かい支援あってのこと、また家族と家族のうちとけ合った光景を見たいとのきっかけで、毎年12月に開催し、翌年1月には、会員、OBとの新年互礼会(昭和46年から新年宴会→新年互礼会)に変更。酒を交わしをがら先輩方との懇親の場も、かなり勉学的な知識もえられ、楽しい一時です。また年1回の研修旅行、納涼会など、これらの親睦によって仲間がさらにふえていきます。そして趣味仲間が集っての、スポーツ競技、野球大会市長杯、議長杯、リーグ戦など青年クラブは過去に優勝も何回となく獲得しました。
 このように青年クラブのあらゆる活動が多様化し、事務処理的な限界から、昭和45年8月現在の事務所を確保し、この場にて、いろいろ企画議論をし、以上のようを行事、事業等を行なってきました。
 いつでも会合をもつことができる場所があり、予想以上の効果を上げることができています。事務所の使用、会員相互の結束により、クラブの友は、スピーディーな歯車の歯から落ちこぼれることもなく、がっちりと力を合わせ、自己の研修、自由に語り合える友愛の場、社会に役立ち喜ばれる仕事という三本の柱を、ますます、確固たるものにしました。

大垣青年クラブとは