
上田城での攻防戦は真田有利で終わったものの、日本を2つに分けた大戦は、関ヶ原の地で徳川家康率いる東軍の大勝利で終わりました。
関ヶ原本戦で主力になるはずであった徳川秀忠率いる3万8000千の軍勢を遅参させた真田の罪は重いとして、家康は、真田昌幸・幸村父子を死罪を命じます。
しかし、東軍に属していた幸村の兄・信之は、自らの命を捨てる覚悟で助命を嘆願。信之はこの戦で6万8000石の加増と上田城主の座を与えられましたが、父と弟の命を見捨てられず2人の助命を願い出ました。

家康は、信之のその孝行心と軍功に免じて命を取ることはせず、真田昌幸・幸村父子を高野山へ幽閉、蟄居を命じます。
わずか15人あまりの家臣と家族を従えて上田城を離れた真田昌幸と幸村は、以後、高野山を経て、九度山の地で長い長い隠遁生活を送ることになります。
命こそ助かったものの、高野山での隠遁生活は貧しく、大変厳しいもの。
昌幸は、いつか釈明され再起することを夢見ていましたが、願いは叶わず関ヶ原の戦いから11年後、その波乱の生涯を九度山で終えました。
父・昌幸の死によって、「再起」の遺志は幸村が継ぐことになり、その機会は、関ヶ原の戦いから14年後に大阪の地でめぐってくるのです。
そしてそのとき、兄の信之と幸村は、再度敵として相対することになります。